富山県営業写真家協会(富山県写真師会)は幾多の変遷を重ね、戦時中はあらゆる物資が統制され写真関係のものも配給制になるに及んで写真商業組合となるに至り、終戦前は坂倉忠正氏を会長として活動した。
昭和17年度 富山県写真師大会 電気ビルにて
丸木利陽門下生、アメリカ・イリノイス写真学校をおえて富山市にて開業。戦時中富山県写真商業組合・富山県写真師会会長、また昭和18年富山部会長就任など写真業界発展のため尽力された。
(昭和18年~22年)
永らく写真師会の副会長・会長として業界発展のため尽力され、温厚な人格者であった。
(昭和22年~42年)
群馬県出身、東京丸木利陽氏入門昭和元年富山市に開業。戦時中は本県写真商業組合の副理事長とし業界の先頭に立って困難な時代を乗り越えられ、会長就任以来20年間に渡り、本県のレベル向上に尽力された。東京に社団法人日本写真文化協会が出来て富山県写真師会は富山県支部となる。